愛の関係

  一

 これが最初の記事になるのだから、一応はじめに説明をしておく。僕が書く記事は全て作品だ。作品だということは、メタ領域を持つということだ。つまり、作られたものだ。何もかもを暴露して書いてあるわけでもなければ、例えば不可解な飛躍があったとしても、それは効果を生むために、意図的にそう書いている可能性があるということだ。

 さらにこれは日記ではなく作品なのだから、あまり更新頻度が多くないことも付け加えておきたい。僕は自分が書いた日記を読み返すことはあまりしないが、自分の書いた作品は頻繁に読み返し、そして修正を加える。

 そして、もし自分が考えていることが拙いとしても、なんとか存在論的に立っていられるような形で「閉じる」ことを意図している。

 

  二

 僕が考えていることの領域は、精神分析学の領域にかなり近い。実際今は、フロイトやメラニー・クライン、ジャック・ラカンの考えを剽窃して利用しているようなものだ。でも僕が言おうとすることはやや違う。

 基本的に僕はただ、それが疑わしいと思うことの、何が疑いを呼んだのかを分かりたいのだ。それは学問でもないし、他者に働きかけるための方法論でもない。

 

  三

 本筋で考えていることの周囲であれやこれやという瑣末な意見や感想が巡るということがある。おそらくそれが、個別性というものの領域なのだと思う。あのニュースがどうだ、昨日あった出来事がこうだ、それら個別の物が存在することの領域が、「優しさの領域」なのだと僕は考えている。

 

  四

 「幸福」や「愛」という言葉は、あまりに利用され過ぎてきた。お金のやりとりが背筋になにか暗いものを走らせるように、幸福や愛という言葉を見ると、無垢さを利用するということ自体を見ているような気が起こってくる。だが、僕にとって「愛」は、人間関係の全てを意味する言葉だ。孤独でいると人恋しくなるという事実に、「愛」が肯定的な言葉であることが基礎づけられている。
 差が存在するということが、関係が起こるということだ。例えば私と他者は、それだけで既に決定的な差だ。その決定的な差の場においておこるのが、愛の関係だ。

性差は差のうちの重大なひとつとして存在するのであり、それ以上のものではないということも同時に言える。

差のない関係というのはありえないし、関係は差が認知されることで必然的に起こるものだ。

 

  五

 ピアニストのフジコ・ヘミングは商業的に利用されているだけの演奏家で、聞く人が聞けば、彼女の演奏は大したことがないという言葉を聞いた。彼女が曲を演奏すると、繰り返されるモチーフの、繰り返されることの必然性が浮かび上がってくると言う印象を僕は受ける。

 愛の関係と性の関係は当然区別されねばならない。愛の関係は性の関係を含んでいて、性の関係は正確に言えば「性差」の関係だ。嫌いな人とでも、同性相手でも、人間同士の関係ならば、それはおしなべて愛の関係だ。